あらたまって口にするにはあんまり当たり前のことなので、いささか恥ずかしい思いでためらわれていた。が、ごくまっとうな常識が守られない世の中である、ふだんは片手でさばいていた惰性の行為も、時には両手で抱え上げ、ためつすがめつ点検してみるのも悪くはない。
夢想は人生における欠かせない楽しみのひとつだが、どうもぼくのなかでは、夢見たことは必ず破れる、そんな決まりごとがあるようだ。その夢は、取りとめもなく非現実から現実へと飛び移り、一方から他方へと渡り、まったく不定な、脈絡のない心の働きである。これはぼくの独善的な感覚に過ぎないけれど、妄想が他者との共通感覚の土台を欠いた、独りよがりな夢だとすれば、夢想はもう少し社会的なあてのなさと言えるだろう。これには、ルソーの著作『孤独な散歩者の夢想』の言葉が影響している。確かに、夢想は創造的な成果の種にもなりうる。 怖いのは、夢想が横着を決め込んでしまうことだ。あてのない心の移ろいにも、それなりの規則というものがあるようで、たとえばそれが他者の人格を踏みにじることに、サディスティックな喜びを感じるだとか、血を見ることに官能的なおののきを感じるだとか、そうした反社会性に落ちた時、夢想はもはや夢想ではない。それが本来のそれたりうるためには、夢見る者に根っからの善性とでも言うべきものがなくてはならない。人間の善行に喜ぶような善性があって、はじめてそれのあてどのなさは、気ままな夢の移ろいと呼べる。そうした夢は、心をすり減らすどころかむしろ富ませる豊かさを備えている。 横着、と書いたが、これは生活の乱れや、疲弊しきった心の乱れ、もしくは際限のない欲望の膨張といった無秩序が、夢想の自律作用をなくすることを言っている。一見気ままのようで、実は満ち足りた心によってはじめて夢想は、自律的に展開している。生活の昼夜逆転や閉塞的な未来と現在、現実がどうしようもなく抜き差しならない状況の時、妄想が際限もなく放縦に膨張してゆくことは、経験によって知っている。自棄になって、人として守るべき道徳や自尊心を投げる時、人の心にはどこまでも悪魔的な妄想が膨らんでゆく。そうなると、夢の世界は現実にまでも脅威を与える。妄想は、健全な心を壊してゆく。 引きこもりの時期のこうした不健全な妄想は克服したが、しかしまだ、時おりひやりとすることがある。夢見たことが破れてゆく、こう言う時、ぼくはすっかり横着して勝手に未来に期待をかけてる。夢を見たから、夢が破れてゆくのではない。夢見たことが破れた瞬間の落胆を先取りして、夢をはすかいに眺めていながら、ちっとも本気になってそれに取り組もうと頑張らない、だから見る夢だってかなわないのだ。失望や落胆、幻滅をいささかも恐れるようであってはいけない。 ただ、現在に目を・・・・・・とは思うものの、それでもやはり。それでもやっぱり、ひとつことに一心にはなれないこともある。あちらを選べば、こちらを失い、こちらを選べば、あちらを失う。あまつさえ欲するものを得られずに、いまあるものも失くしてしまえば・・・・・・と考えると、怖くて前に踏み出せなくなる。だから、いまは、とりあえず、力を尽くして待つほかない。簡単なことだ。けれど簡単なことでも、容易じゃない。あてがなければ、努力しない、約束がなければ頑張れないのだ。情けない。しかし。 遠い先は見ないよう、やれることをいま、やれば、いずれは運命の方から、自分を選び取ってくれる時がくるかもしれない。
by apatheia2004
| 2006-05-16 23:59
| 考察
|
ファン申請 |
||