ベルコンが止まりレーンに腰かけ、拳でおとがいの汗を拭うと、ざらざらした。汗が乾いて塩となっていた。今日は暑かった。雨が降り、じめじめと濡れた空気が肌にまつわりついた。
バイト前、家を出掛けに、チャットにひとりでいた。女性が入ってきた。見覚えのないハンドルネーム、しかし以前話したことがあるという。ああ、と思い出したとたん、「助けてください」。「どうしたの」とたずねる言葉をさえぎるように、「死にたいです」、「首をつりたい」、たたみかけるように話続ける。ぼくは冷静だった。女性はまもなく退室したが、こうなってはぼくに出来ることは何もない。ただ、彼女に呼びかける言葉を、置いておいた。 いったい、女性はそれほどに追い詰められていたのだろうか。酒を飲んで酔っている、と言っていた。ぼくにだって、死にたい時はいくつもあった。でも、ぼくがもっとも苦しかった時、ぼくは誰にも、何も、言葉にしてそれを言うことを許されなかった。 だから、冷めた目で見ていたのだろうか。それだけでもあるまい。しょせん顔の見えず声も聞こえぬこんな関わりでは、本気になって疲れるのが、ばかばかしいと思うんだろう。結果、誰かが死んだとしたところで、いったいどれだけ、その死の重みを感じられるか。 語りつくされていることだけど、ネットには、手紙を書く時、面と向かってもの言う時にあるはずの、熟慮や反省の機会が極端に少ない。だから、ぼくはネットに懐疑的だ。たやすく憎悪の感情があふれ出すし、同じ程度に、また愛情や優しさの言葉も濫用される。どんなに優しい言葉をかけたとしても、その後の相手に責任を持つ必要のない距離にあっては、そんな薄っぺらな言葉、いったい誰が喜ぶというのか。 ただ、話に耳を傾ける、それだけが出来ることの精一杯だが、それさえも今日の彼女にはしてあげられなかった。大丈夫だろう、軽くそう思う心のある一方で、以前、メールを交わしていたある人に、突然「さようなら」と告げられて、慌てて救急に電話をかけたことがあった。何度も自殺未遂をしていた人と知っていたから。それでも、何と言うのか、その時でさえ、どこかぼくは冷静だった。そんなことは冗談だろう、と気軽に思う気持ちだけではない。たとえ死んでも、遠い人間の存在のこと、とどうしても本気になれなくて、無理に気遣う気持ちを励まして、電話をした。話す声は、何だか少し、芝居がかったように悲しみに沈んでいた。何という、「存在の耐えられない軽さ」だろう。 アフリカ、リベリアにて、国連平和維持部隊員およびNGO関係者などの、少女たちへの買春が判明。食料やわずかな金銭との引き換えに。これもまた、恐ろしいほどに耐えがたい、存在の軽さ。命に軽重はないはずだ。 #
by apatheia2004
| 2006-05-09 00:13
| 日記・雑記
靖国をめぐる論争がかまびすしい。とりわけ、中韓への情念的な奔流となって無節度な言葉が人々の口からあふれている。北朝鮮による拉致、中国による反日運動、そして最近では韓国人の常軌を逸した竹島をめぐる集団的ヒステリー、こうしたことが、これまで過去の戦争に謙虚であった戦中世代を弱腰と、政治の表舞台から追いやるような流れにある。戦争の罪を反省する構えを持ち続け、そして支持されてもいた朝日を始めとする論者たちは、いまや大きな軌道修正を迫られている。この国ではいまや、愛国や中韓への憎悪をあからさまに語る論者たちが、民衆の支持を受け、力を得ている。
しかし大方の国民はこの問題に対しての知識は浅い。そこで、この著作である。靖国の肯定と否定、どちらの側にもくみさずに、ただ論理と良識ばかりを武器にして、靖国問題を掘り下げている。小泉の参拝に、首肯する者、反対する者、いずれの者にとっても、この問題の真相を知るためには、格好の一冊。 「内外の人々がわだかまりなく哀悼の誠を捧げる」とは、靖国神社に参拝する際、小泉首相が総理大臣談話の中で語った言葉である。これは、靖国を含め千鳥ヶ淵墓苑などで、いかにして国民が納得した形で戦死者を追悼しうるか、議論を尽くしたい、という趣旨のもとに発言された言葉である。その後、中韓の情念的な反発を受けて、外圧に屈するなの掛け声に従い首相はかたくなに参拝を続け、冷静な議論がすっかり置き去りとされてしまった感があるが、改めて問うに、果たして靖国神社は日本国民が、先の大戦で亡くなった戦死者を追悼するにふさわしい場所であるか否か? いや、靖国はこれまで一貫して死者を追悼するための場所でもなかったし、そして今後も靖国が靖国であり続ける限り、追悼施設とはなりえないだろう。戊辰戦争等、明治維新のいくつかの内戦を経た後に、賊軍はいっさい祀らず、官軍、もしくは自国の兵士のみを祀り続けて来た靖国は、「戦争で『祖国のために死んだ』兵士たちを英雄として讃え、『感謝と敬意』を捧げ、『彼らの後に続け』と言って新たな戦争に国民を動員していくシステム」であった。そうである限り、そこは戦死者を悲しみ悼む場所であっては国家の狙い通りに機能しなかった。戦死者が靖国の母たちに悲しみ惜しまれ、その感情が国民全体に共有されるようであっては、戦意は阻喪される。母たちの悲しみは抑圧され、わが子が天皇の赤子として戦死の名誉に与った喜びとして転化された。すなわち、兵士たちはみずから望んで、喜悦して、死地へと赴いていったとされ、そこには一切の悲しみも、後悔も許されなかった。「望んで」死んでいった兵士たちは、死後靖国で英霊として祀られた。全国からは遺族たちが国費によって招かれて、その様子を国許に帰り伝えた。そうして戦意の高揚がはかられた。靖国は、悲しみを喜びへと転化させる、感情の錬金術に他ならなかったのだ。そこは追悼のための施設ではなく、顕彰施設なのである。 こう言うと、決って以下のような反論がある。極東国際軍事裁判によって裁かれたA級戦犯は、事後法によって裁かれたのであるから、無効である。すなわち、彼らが罪に問われた「平和に対する罪」も「人道に対する罪」も、いずれも大戦中には国際法としては存在しなかった。戦勝国が恣意的に作り一方的に敗戦国である日本を裁いたに過ぎないとしている。確かに、東京裁判は法的に多くの問題を抱えていて、そのことが戦後終始あの大戦を肯定したい人々の論拠となっていたのである。しかし、彼らは本当にあの裁判を拒絶して、無効に付したい思いでいるのか? そうした主張は、東京裁判を受け入れたサンフランシスコ平和条約受諾によって初めて国際社会に組み入れられて、繁栄を謳歌してきた今日の日本のありようを拒絶することである。そして、いわば少数の戦犯に罪を押し付けその責務を免れてきた国民に、新しくまた、戦争の罪を問うこととなる。 また、あの裁判を拒絶したところで、侵略によって他国に多くの犠牲者を出し、自国民を苦しめてきた日本国の責任を帳消しにすることは出来ないはずだ。東京裁判を再び問い直す。それも良いだろう。しかしそれでも、決して日本人は、先の大戦による犠牲者の亡霊からは逃れられない。 ここで再び反論が提出される。日本は確かに侵略をした。しかし米国は東京大空襲によって、広島、長崎の原爆によって、何十万人もの無辜の死傷者を生んだではないか。あれこそまさに戦争犯罪である。その罪が問われずに、何でわれわれだけが。それだけではない。中国によるチベット、米国によるベトナム、フランスによるアルジェリア、そのような事例は枚挙にいとまがない。結局、戦争とはそのようなものなのだ。このように言って、自身の行為を条件反射的に相対化し、正当化する論が盛んである。まるで熱病のように、このような幼い議論がまかり通っている。こうしたアジア、太平洋の戦争をめぐりしばしば日本の政治家によって発せられる問題発言は、「ミメティスム」と呼ばれている。他国もやっているのだから、わが国だって、というわけだ。子供の喧嘩によく似ている。 確かに、戦争において残酷になりうるのは、中韓の教育が教えているように、日本人だけであるわけじゃない。中国も、韓国も、米国も、フランスも、あらゆる国家が「痛い」過去とあやまちとを抱えている。わが良心に厳格であろうとするなら、いずれの国民も、他国を責める時には自国の歴史を振り返って羞恥と後悔に駆られないではいられない。多くの国が、自身の過去から目を背けて、鉄面皮にせめぎあう国際社会にあって、ただドイツは自身の父祖が犯した罪を問うところから、戦後を出発したものだが。 結局、戦争の罪を問うためには、しかもそれが時代精神によって必ずしも違法とされなかった時の行為においては、その国の精神と理念と、品格とにかかってくるのではないか。日本にあっては、押し付け憲法とされながらも、戦後一貫してその精神を生きてきた九条がある。日本が今後も変わらず、国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄し続けようとするならば、必然的に、あの戦争、あの裁判への問い直しが絶対的に要請される。過去の過ちから教訓を汲み取ろうと思うならば、時代がそんなことはさせないさ、だとか、そんなことはありっこない、などという粗い思いだけでは平和の実現のためには、まったく足りないのだ。日本人の倫理的なゆるさは、戦後六十年を過ぎて、いよいよたるむ一方である。 この問題を真に理解し、答えを得るには、状況はあまりに複雑に絡まりあって、容易に解けない。なかんずく、中韓のまつわりついてくる情念は、問題をいっそう困難なものにしている。論理も大事。真実も大事。歴史の真実は彼らが唱えるものからはほど遠い。けれども、歴史の真実を解き明かす、それだけでは未来の展望を開くには足りない。国と国、人と人との未来を開くためには、国家の意志とでもいうべきものが、必要じゃないかと思っている。 本書を読んで、靖国問題のみならず東アジアの問題をつらつら考えさせらた。それはこの本の出来によるところも多いけれど、それ以上に、この問題そのものがぼくらにとって喫緊の、それでいて魅惑的なアポリアだということの証左でもあろう。 おすすめ度★★★☆☆ #
by apatheia2004
| 2006-05-08 18:16
| 書評(本)
病状が気になって眠られぬ祖母に、今朝五時にいよいよだめらしいとの連絡が入り、五時半、亡くなったとの報が入った。祖父も祖母も、いつもに変わらず淡々としていた。むしろ、不意の出来事に、親戚と交わす連絡や香典の用意、急の荷造りにと、目前の処理のいろいろに忙しくしていた。近しい人の訃報にも、老いの集まる田舎とて、次々と来る死の知らせに悲しみ慣れてしまったろうか、また雑事に紛れて沈んでいるいとまもないのだろうか、かえってその人を知らぬぼくが、眉を憂いに閉ざして見守っていた。
十五時四十分離陸の飛行機に乗るために、リムジンバスに乗って関空に。義理堅い祖母は親類への土産の菓子を六つほども重ねて買った。ぼくにとっては従兄妹に当たる孫娘には、愛らしいストラップを、いくつか手に取り迷ったすえ土産とした。それから洋食屋に入り、カツカレーとビーフカレーをめいめい食べた。祖父母は、勉強があるだろうからと、先に帰れとぼくのことを気遣った。ロビーの椅子で待つうちに、搭乗時間が迫ってきて、手荷物検査のゲートで手を振り合った。ぼくはいつまでも見守っていたい思いでいたが、背中を向けるふたりを見ると、自分の感傷を笑いたくなった。 恵まれた愛に引け目を感じる必要はないと思う。存分にその愛を自分のものとすればよい。感謝をして、そうして相手を愛せればよい。その一方で、愛に渇いている人、苦しんでいる人に想いを与えてあげられたなら。そんな片手間のおすそわけで、解かれるほどには人の心の問題は易くはないが、一所懸命に想うほどに苦しくなるような人もある。そんな時には自分の幼さ非力が悔やまれる。けれども、そうだからこそ、その人の姿をじっと見ている。見つめながら、自分に何が出来るかを考える。疲れて傍にやって来たなら、黙って傍らに寄り添おう。何も出来なくても構わない。ただ、ただ、じっと、その人を見て、想いをそうっと、寄せている。 #
by apatheia2004
| 2006-05-08 17:24
| 日記・雑記
レポート作成の合間を縫い居間へ出ると、饒舌な祖母を中心に家族が他愛もない話に笑いあっていた。昨晩のこと。脳の体操だといって、両の人差し指と親指とを合わせ、まずは一方の親指を人差し指に、それから人差し指をぴんと伸ばし、他方の親指を一方の親指にと、そうして指の腹を尺取虫のようにはわせることを、だんだんに速度を上げて続けていった。祖母がやり出したその運動を、いつか家族みんながやり始めると、夢中になって手指を動かしていた祖父が、「みんなしてやってることじゃ」と言って、ふっと面を上げてふきだした。それを合図に、父も母も、祖母もぼくもいっせいに笑った。
最近、こうして書かれる言葉たちが、疲れたように散漫で、頑なであるなと感じていた。どうしてこんなにも攻撃的なのだろうかと思われるばかり、気持ちをたたきつけるように書いていた。自分に常に率直でありたいとは思うものの、発した言葉が受け取る誰かの胸中に広げる波紋を想像すると、自分の言葉に無責任ではいられない。自分を守るために、突っ張って、こういう時には無駄に誰彼なくを攻め立てる。言葉が激するのは、自身の根拠に対する不安であるから、書いているそばから虚しくなる。 ひと呼吸おきたい。思考も言葉も、疲弊している。こういう時には、ありのままの日常を、細大もらさずありのまま写してみると、思いがけない良い文章が書けたりする。ありふれた日常の中にこそ、拾うべきものがあるはずだ。 今朝の朝日新聞の記事にずいぶん懐かしい人の名前を見た。今井紀明さん、と見た瞬間ははて、と首をかしげたが、二年前のイラク人質事件の人質と知ってうなずいた。彼はいまなお、街中を歩けば罵倒され、ブログの記事には中傷レスが何百となく付くそうな。彼の行為およびその後の事件への認識にはひどく憤慨されたものの、こうした際限のない世間の攻撃には阿呆なことと軽蔑を感じる。日本人はかくも寛容を失ったのか、それとも世間とはそもそもこうしたものなのか。品性のかけらもないではないか。こうした輩をネット右翼と称するらしいが、左翼にしろ右翼にしろ、自身の思想に節度を保てない人間の言葉は、はなから拾うに値しない。 今日の午後、喫茶店から帰って後、祖母の義理の姉に当たる人が、危篤であると知らされた。腎臓透析を続け以前から思わしくはなかったようだが、この時にあたって、何とも時期の悪いことだった。来週の熊野への旅は、見合わせられることになるかもしれない。祖父母は、数日内にも鹿児島へ帰らなければならなくなるかもしれない。田舎では、身の回りの親しかった老人たちが、毎年のように死んでゆき、おばあちゃんもいつ自分の番が来るかしらと思うのよ、と語っていたのは数年前の話だったが、いままたこうして、身近な人が亡くなろうとしている。旅行を惜しむぼくの気持ちとは、違った心持でいるだろう祖父母の心を思いやると、いまはそっと見守っていたい思いでいる。 #
by apatheia2004
| 2006-05-07 18:17
| 日記・雑記
今朝、両親の車に乗せられて祖父母が上阪した。一年ぶり、だろうか。それ以上な気がする。とにかくずいぶん久しぶりな祖父母が入るなり、家の中には線香と年寄りの懐かしい匂いが満ちた。祖母は上阪と孫に会えた喜びで、いささか昂揚のうかがえるほどに元気だった。祖父は相変わらずのんびりとしていた。一年以上会わずにいた祖母の髪には白髪が増えたし、顔にも深く細い皺が刻まれていた。祖父の目の下には、黒いあざが病気の跡をとどめていた。ふたりとも、もう八十だものなあ、と思いながら、じっと見つめていると、それでも昔に変わらぬ祖母の饒舌と、祖父の柔らかい笑みが、ぼくを安心させてくれた。
部屋に戻ってパソコンに向かっていると、祖母が人なつこくぼくの背中に。河島英五を流してあげた。腕枕をしながら目をつむり、じいっと耳を傾けている。いまも椅子の後ろにいて、書棚の本を触っている。ひとりになりたいのになあ、と心のうちにはぼやきながらも、その背中を眺めていると、仕方ないなとしぜん笑まれるぼくがいる。 来週には熊野にゆく。道頓堀にもゆくだろう。法善寺横町では、美味しいものを食べさせてあげよう。見せてあげたいものが、たくさんある。残された時間は長くはない、そう思えば、もっとこの時を大事に両手で扱っていい。 #
by apatheia2004
| 2006-05-06 12:58
| 日記・雑記
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