「そろそろ、独り暮らしもできるんじゃないか」
バイトから帰るなり、洗面所で顔を合わせた父がこう言った。唐突だが、恐らくつい先ほどまで母親と、子供の自立について話し合ってでもいたのだろう、居間にゆき母と目を合わせると、案の定そうだった、その目がかすかに笑っている。 つい一年ほど前までは、このように言われることがひどく辛かった。その準備がまだ出来ないのに、飛び込み台に立たされて、背中を押されるような恐ろしさ。ぼくは泣きそうに顔を歪めて、自分のタイミングで飛ばせてくれよ、と何度となく叫んだ。そこには甘えがあったことを自覚している。確かに自分は無力だった、けれどもそれじゃあ父母に支えられているその間、いつかは自分の足で立とうとする意識を抱いていたか。そんなものは欠片もなかった。甘えていた。 いまなら、もう少し現実的に考えられる。若者にとってもっとも貴重なものは、時間である、と痛切に感じているから。過去にさかのぼれるものならば、ああして無為に過した数年間に、ロシア語を学んだり、小説を書いたり、バイトをしたり、いくらでも自身の経験と知識を重ねたい。しかしそれはかなわない。わかっている、だから、青春の残り少ないわずかな時間を、ぼくは大切によく考え使わなくてはならない。 いまはまだ、飛び立つタイミングではないと感じている。もう少し、経験を積み、耐性をつけて、勉強をしたい・・・・・・が、たとえたったいま、親によって強く背中を押されても、ぼくはあんがい独りでやってゆけると思っている。 #
by apatheia2004
| 2006-05-25 23:42
| 日記・雑記
出張で遅くなった父が十一時頃にようやく帰宅して、いつまでも洗面所でごそごそしている。トイレに入ろうとカーテンを引き寄せると、風呂場に滑り込むように父の裸の背中が見えた。夕刊も読まずに珍しい、と思うやいなや、ひどい臭気が鼻についた。失禁したのだ。
洗濯入れに無造作に投げ込まれたスーツの尻には濡れた後があり、トイレのマットも取りのぞかれていた。勢いよく水を落として、下着とマットを洗っているのだろうと想像すると、悲しくなった。 父は単身赴任の頃のさまざまな心わずらいがもととなって、潰瘍性大腸炎を病んだ。人工肛門になるかとも話していて、それを聞いた時にはさすがにヒヤリと怖くなったが、どうやら父は、この病気と自分なりに付き合っている。おととしに入院した際、ぼくと母と三人でおむつを買って、それを恥じているようだったが、父は生来の几帳面な性質もあって、トイレの床には病状日記が立てかけており、そこに排泄のたび細かく記録をしていたようだ。 そんな父の懸命さ、またその原因の一端がぼくにもあるとの引け目から、さすがに露骨に顔は歪められない。臭気が鼻についた瞬間、「ああ」と言葉にならぬ嘆息が出て、そのままトイレで用を足した。生活するとはこうしたことだ。人とともに暮らしてゆくとはこうしたことだ。こう思うことが出来た時、ぼくは少し、大人になれた。 八十になる祖父母も、その老いらくの暮らしは孫のぼくが見てあげられたなら・・・・・・と、感傷的な気分のままに思うのだが、そうして思う気持ちだけでも、と思っている。 #
by apatheia2004
| 2006-05-24 23:08
| 日記・雑記
成人に達したニート、フリーターが所得税控除の対象から外される方向の議論が、進行しつつあるようだ。これは、少子化対策の一環としての子育て支援減税の財源を確保するという名目と、さらに、若年層の労働力強化を狙い租税負担を増やすことで、ニートおよびフリーターの就労を促す意図がある。
この扶養控除が本来子育ての負担軽減という趣旨のもとに敷かれた制度であってみれば、重い租税負担に喘いでいる「良民・常民」にとってごくまっとうな、溜飲の下がる思いの議論であるかもしれない。確かに、気力も体力も充分でありながら、社会と家族の寛容さに甘え、抱擁する家族の生温い生活温度にますます耐性を失って、それをもって、社会に出てゆくための勇気がない、力がない、と弁解がましく言う人々がいる。彼らのような存在は、いっそ思い切りよく突き放してやりさえすれば、不毛な「自分探し」などをやめてむしろ不如意な現実に適応して生きるだろう。余剰と唾棄すべき寛容さとが、かえって若者を苦しめている、現実もある。 だが、今回の議論が対象としている層には、引きこもりの青年も含まれていることを忘れてはいけない。深刻な社会問題となりながら、しかし公的機関にも、病院にも、信頼に足る受け入れ手がなく社会的認知の欠損に苦しむ彼らの親は、しょうことなしに先日の事件に見られたような、得体の知れない私的施設に預けるより、ほかに術が見当たらない。 十年、二十年と引きこもり続けた青年たちの心理はもとより、彼らを養う親たちの財政も疲弊逼迫している。みずからの命を削って子を生かしている現実がある。そうした彼らから、年額三万から七万におよぶ納税負担を強いることは、財政的圧力はもとより、その社会的圧力はいかばかりだろう。こうした社会の圧力が、じわりじわりと、彼らの心を追い詰めて、やがて自暴自棄な結末を、あるいは内向的な人間であれば自己破壊的な悲惨な結末を引き起こさないことを、願うばかりだ。 #
by apatheia2004
| 2006-05-24 22:22
| 考察
妹が半年におよぶカナダ留学から帰国した。ちょっと頑なな気持ちで部屋に引っ込んでいたぼくは、その声に耳を寄せるでもなく、懐かしさ愛しさ喜びの欠片もなく、ああ、帰ってきやがったか、と思いながら聞いていた。懐かしい人間が帰って来た、もったいなくも珍しく思う気持ちもまったくなく、つい昨日別れたばかりの他人のように。それでも、娘を迎えた母親が、いささか昂ぶったように調子づいているそのさまが、家族なのだなと淡々と、感じられた。
妹の希望の通り、回転寿司を食べに行った。気が向けば行くよと言ったぼくはやはり、それと気づかず頑ななのだな。ひとつテーブルに家族四人で向かい合い、それが半年前と連続した日常と感じられる、この感覚は、むしろ安心してよいものなのかも、しれないな。彼女が、ぼくを一足飛びに飛び越えて、幸せでありそうなその姿に、ぼくはすごく救われている。 #
by apatheia2004
| 2006-05-21 21:55
| 日記・雑記
嬉しいことは何度でも、しつこいばかりに繰り返す。同じひとつことでも、心から笑ったことならば、話すたびにその時の喜びがよみがえるようで、喜びが新たになる。何度でもそしゃくして味わっていたい。
今朝、友達と話した。だいたいぼくは普段から自分の鈍才ぶり非才ぶりを自覚しているものだけれど、口で話す時ほどにそのことを痛感させられることはない。なものだから、実に当意即妙に、その時その時にふさわしい言葉を瞬時に的確に口に出来る友達が羨ましい。 ぼくの話し言葉は、あたかも原稿に用意した書き言葉のように、時に堅苦しくしゃちこばり、柔軟でない。要するにネタなのだが、構えて差し出された話題ほど退屈なものはないものだ。長いセンテンスですらすらと話すそのそばから、時々ちょっと虚しくなる。が、上手く言ってのけたな、と満足されることもあって、今日の話がそうだった。 ある友人に夢中のあまり近づきすぎて、痛い目を見、はじめてその人との距離をはかることができ、いまでは付き合い方もわかるようになった云々のことを、上手くまとめて言いえたな、と少し満足していたところが、返す言葉で「振られただけじゃない」ようのことをずばりとポンと言い放たれ、思わず椅子から落ちそうになった。 苦笑、苦笑、苦笑。もう笑うしかなかったぼくは、要するにいいかっこうしいであるのだなあ、と感じないではいられなかった。そう言われちゃあ、身もふたもない。でも、ちゃんと核心を突いているから、言葉もない。 こんなに言われて喜んでいるおとなしさが、ぼくの良いところでもあるのだろうけど、実際、話していると、ぼんやり者のぼくにはとうてい気づかれないでいることを、気づかせてもらえることがいくつもある。楽しいなあ。 #
by apatheia2004
| 2006-05-20 19:36
| 日記・雑記
|
ファン申請 |
||