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「そろそろ、独り暮らしもできるんじゃないか」
バイトから帰るなり、洗面所で顔を合わせた父がこう言った。唐突だが、恐らくつい先ほどまで母親と、子供の自立について話し合ってでもいたのだろう、居間にゆき母と目を合わせると、案の定そうだった、その目がかすかに笑っている。 つい一年ほど前までは、このように言われることがひどく辛かった。その準備がまだ出来ないのに、飛び込み台に立たされて、背中を押されるような恐ろしさ。ぼくは泣きそうに顔を歪めて、自分のタイミングで飛ばせてくれよ、と何度となく叫んだ。そこには甘えがあったことを自覚している。確かに自分は無力だった、けれどもそれじゃあ父母に支えられているその間、いつかは自分の足で立とうとする意識を抱いていたか。そんなものは欠片もなかった。甘えていた。 いまなら、もう少し現実的に考えられる。若者にとってもっとも貴重なものは、時間である、と痛切に感じているから。過去にさかのぼれるものならば、ああして無為に過した数年間に、ロシア語を学んだり、小説を書いたり、バイトをしたり、いくらでも自身の経験と知識を重ねたい。しかしそれはかなわない。わかっている、だから、青春の残り少ないわずかな時間を、ぼくは大切によく考え使わなくてはならない。 いまはまだ、飛び立つタイミングではないと感じている。もう少し、経験を積み、耐性をつけて、勉強をしたい・・・・・・が、たとえたったいま、親によって強く背中を押されても、ぼくはあんがい独りでやってゆけると思っている。
出張で遅くなった父が十一時頃にようやく帰宅して、いつまでも洗面所でごそごそしている。トイレに入ろうとカーテンを引き寄せると、風呂場に滑り込むように父の裸の背中が見えた。夕刊も読まずに珍しい、と思うやいなや、ひどい臭気が鼻についた。失禁したのだ。
洗濯入れに無造作に投げ込まれたスーツの尻には濡れた後があり、トイレのマットも取りのぞかれていた。勢いよく水を落として、下着とマットを洗っているのだろうと想像すると、悲しくなった。 父は単身赴任の頃のさまざまな心わずらいがもととなって、潰瘍性大腸炎を病んだ。人工肛門になるかとも話していて、それを聞いた時にはさすがにヒヤリと怖くなったが、どうやら父は、この病気と自分なりに付き合っている。おととしに入院した際、ぼくと母と三人でおむつを買って、それを恥じているようだったが、父は生来の几帳面な性質もあって、トイレの床には病状日記が立てかけており、そこに排泄のたび細かく記録をしていたようだ。 そんな父の懸命さ、またその原因の一端がぼくにもあるとの引け目から、さすがに露骨に顔は歪められない。臭気が鼻についた瞬間、「ああ」と言葉にならぬ嘆息が出て、そのままトイレで用を足した。生活するとはこうしたことだ。人とともに暮らしてゆくとはこうしたことだ。こう思うことが出来た時、ぼくは少し、大人になれた。 八十になる祖父母も、その老いらくの暮らしは孫のぼくが見てあげられたなら・・・・・・と、感傷的な気分のままに思うのだが、そうして思う気持ちだけでも、と思っている。
成人に達したニート、フリーターが所得税控除の対象から外される方向の議論が、進行しつつあるようだ。これは、少子化対策の一環としての子育て支援減税の財源を確保するという名目と、さらに、若年層の労働力強化を狙い租税負担を増やすことで、ニートおよびフリーターの就労を促す意図がある。
この扶養控除が本来子育ての負担軽減という趣旨のもとに敷かれた制度であってみれば、重い租税負担に喘いでいる「良民・常民」にとってごくまっとうな、溜飲の下がる思いの議論であるかもしれない。確かに、気力も体力も充分でありながら、社会と家族の寛容さに甘え、抱擁する家族の生温い生活温度にますます耐性を失って、それをもって、社会に出てゆくための勇気がない、力がない、と弁解がましく言う人々がいる。彼らのような存在は、いっそ思い切りよく突き放してやりさえすれば、不毛な「自分探し」などをやめてむしろ不如意な現実に適応して生きるだろう。余剰と唾棄すべき寛容さとが、かえって若者を苦しめている、現実もある。 だが、今回の議論が対象としている層には、引きこもりの青年も含まれていることを忘れてはいけない。深刻な社会問題となりながら、しかし公的機関にも、病院にも、信頼に足る受け入れ手がなく社会的認知の欠損に苦しむ彼らの親は、しょうことなしに先日の事件に見られたような、得体の知れない私的施設に預けるより、ほかに術が見当たらない。 十年、二十年と引きこもり続けた青年たちの心理はもとより、彼らを養う親たちの財政も疲弊逼迫している。みずからの命を削って子を生かしている現実がある。そうした彼らから、年額三万から七万におよぶ納税負担を強いることは、財政的圧力はもとより、その社会的圧力はいかばかりだろう。こうした社会の圧力が、じわりじわりと、彼らの心を追い詰めて、やがて自暴自棄な結末を、あるいは内向的な人間であれば自己破壊的な悲惨な結末を引き起こさないことを、願うばかりだ。
妹が半年におよぶカナダ留学から帰国した。ちょっと頑なな気持ちで部屋に引っ込んでいたぼくは、その声に耳を寄せるでもなく、懐かしさ愛しさ喜びの欠片もなく、ああ、帰ってきやがったか、と思いながら聞いていた。懐かしい人間が帰って来た、もったいなくも珍しく思う気持ちもまったくなく、つい昨日別れたばかりの他人のように。それでも、娘を迎えた母親が、いささか昂ぶったように調子づいているそのさまが、家族なのだなと淡々と、感じられた。
妹の希望の通り、回転寿司を食べに行った。気が向けば行くよと言ったぼくはやはり、それと気づかず頑ななのだな。ひとつテーブルに家族四人で向かい合い、それが半年前と連続した日常と感じられる、この感覚は、むしろ安心してよいものなのかも、しれないな。彼女が、ぼくを一足飛びに飛び越えて、幸せでありそうなその姿に、ぼくはすごく救われている。
嬉しいことは何度でも、しつこいばかりに繰り返す。同じひとつことでも、心から笑ったことならば、話すたびにその時の喜びがよみがえるようで、喜びが新たになる。何度でもそしゃくして味わっていたい。
今朝、友達と話した。だいたいぼくは普段から自分の鈍才ぶり非才ぶりを自覚しているものだけれど、口で話す時ほどにそのことを痛感させられることはない。なものだから、実に当意即妙に、その時その時にふさわしい言葉を瞬時に的確に口に出来る友達が羨ましい。 ぼくの話し言葉は、あたかも原稿に用意した書き言葉のように、時に堅苦しくしゃちこばり、柔軟でない。要するにネタなのだが、構えて差し出された話題ほど退屈なものはないものだ。長いセンテンスですらすらと話すそのそばから、時々ちょっと虚しくなる。が、上手く言ってのけたな、と満足されることもあって、今日の話がそうだった。 ある友人に夢中のあまり近づきすぎて、痛い目を見、はじめてその人との距離をはかることができ、いまでは付き合い方もわかるようになった云々のことを、上手くまとめて言いえたな、と少し満足していたところが、返す言葉で「振られただけじゃない」ようのことをずばりとポンと言い放たれ、思わず椅子から落ちそうになった。 苦笑、苦笑、苦笑。もう笑うしかなかったぼくは、要するにいいかっこうしいであるのだなあ、と感じないではいられなかった。そう言われちゃあ、身もふたもない。でも、ちゃんと核心を突いているから、言葉もない。 こんなに言われて喜んでいるおとなしさが、ぼくの良いところでもあるのだろうけど、実際、話していると、ぼんやり者のぼくにはとうてい気づかれないでいることを、気づかせてもらえることがいくつもある。楽しいなあ。
周期的に来る波になすすべもなく呑まれていた頃には、断続的にしか頁をめくれなかったもどかしさも、ここに来てじょじょに継続的に読むことが出来、それが静かな喜びと満足に変わっている。二時間足らずで八頁、という恐るべき遅読ながらも、注釈、現代語訳と首っ引きで読み込んでいると、流し読みでは見逃してしまいそうな細部に目が留まり、それがよりいっそうの源氏理解につながってゆく。
昨日ようやく『蓬生』の巻を読了した。それと同時に、この巻の、ひいては末摘花の新たな側面と魅力を発見できた。ぼくはそれまで、世紀の醜女末摘花を、てっきり源氏本流の物語の支流をなす短編物語として、「をこ」な存在とのみ決め付けていた。そして確かに、彼女の登場する『末摘花』の巻においてその醜貌は残酷なまでに活写され、廃屋に住む思いがけぬいい女、という源氏のあてはすっかり外れる。完全な滑稽譚として語られるのである。長く垂れ下がった鼻に鼻頭に染まった赤の色、白い雪顔負けの真っ青な肌に痩せぎすな肩つき・・・・・・・ここまで書き立てるものかと思われるほど、その醜貌は拡大描写されている。そして読者は、筆者の思惑に乗せられて無邪気にこの醜女を笑い飛ばすのだが・・・・・・。 『蓬生』では、時の権勢家右大臣一族にうとまれた光源氏が、みずから京を下って数年を過ごした須磨・明石たっ居の後、すっかり運命から見放されて蓬の生い茂る宿となった常陸宮邸(末摘花邸)を訪れる様が語られている。源氏たっ居の間、親も先立ち世話する者のなかった姫君は、窮乏に苦しめられてさまざまの不自由を味わいながらも、それでも源氏のいつかは思い出してはくれるだろう情愛に期待をかけて、耐え暮らしている。その日の辛苦をやり過ごすため、女房たちは家具調度を売り払うように責めすすめるが、親の残してくれた形見である、どうしてそれを心ない者たちに手渡せようか、と頑固なまでにうけがわない。そうして、どんな窮乏に見舞われようと、上流貴顕として最後の最後の誇りを保ち、心高さを失わず源氏のおとないを待つのである。そこには、『末摘花』ではあれほどまでに強調された、「をこ」なる姿はまるでない。上臈としての真の気高さ、品格が感じられるばかりである。 ひとつ、原文から引用しよう。末摘花の叔母、大弐の北の方は宮家でありながら受領に嫁し、常陸宮(末摘花の父)から見下げはてられていた恨みを持っていた。往時と打って変わって窮乏にある姫君に、ここぞとばかりの意趣返しを企んで、娘の女房として姫君を召し使おうとなだめすかし、その貧しさにつけこんで着物まで贈り、誘い込もうとするしまつ。それに対して姫君は、 『大弐の北の方奉りおきし御衣どもをも、心ゆかず思されしゆかりに、見入れたまはざりけるを・・・・・・(大弐の北の方がさしあげておいたお召し物の数々をも、不愉快にお思いになった人のゆかりの品なので、見向きもなさらなかったのであるが・・・・・・)』 ここには、たとえどんなに落ちぶれようとも、父宮の残してくれた貴顕としての誇りだけは失うまい、という心高さが感じられて、読んで実に清新な心地にさせられる。 その醜貌を目の当たりにしたならば、こう言う自信ははなはだ心もとないけれども、貧しさにも負けない心の気高さと、あてどのない男の情けをどこまでも信じて待つ、女としての愛らしさに、ぼくは夕顔よりも紫よりも、いっそう強い魅力を感じて、引きつけられた。
と言えばいかにも大仰だが、むしろ取るに足らない日常の些事から、あんがい物事の真実が見えることがあるものだ。このブログに掲載した文章が友達に誤解を与えたらしく、内気な彼女は遠慮したのか、ぼくの意を確かめることをしなかった。そのためぼくは彼女の思惑への邪推が心をかすめた。
確かに書いた文章はいま読み直してみるといかにも言葉が足らなくて、本来の意図は違ったのだ、と改めて説明したところで、そのように読んでもらうには少しあつかましいほどつたない文章に思われた。まだまだ、文章の精度が足りないのだなあ、という反省と、言葉が思いがけぬ影響を人に及ぼす恐さを、感じたことだった。 それはともかく、誤解は解けた。離れているから、メールで限られた言葉を交わすほかないが、お互いの理性が、お互いの誤解と悪い感情とを、抑えてくれる結果となった。一瞬きざしたよくない感情は、ぼくの理性が早まることをおしとどめ、なお相手の言葉によってなだめられて、穏やかに凪いだ。 この時に感じた。理性は一瞬の感情にしなうけれども、事態の移り変わりをじっと待ち構えているならば、状況の方がぼくの心をなだめてくれるように変わるだろう、そして揺らいだ理性も回復する。みずから頭脳を働かせ俊敏に立ち回ることで、事態が打開されることもあろうけれど、心が急くとおっちょこちょいな性質のぼくには、むしろ急な出来事に一瞬動転した理性の揺らぎを、じっと気長に待つことで、解決してゆくゆき方の方が性に合う。 早い機転という点では劣るけれども、そのような、熟慮と熟考という術においては、ぼくは誇るに足るほどのものを持っている。それはまた、小心と優柔不断とも言うのだけれど。 と言ったら、何だそんな些細なことで大仰に、と笑われるだろうか。それも仕方がない、こんな些少な日常の波風が、いちいち生真面目に受け止められてしまうほどに、いまのぼくは静かな生活を送っている。それは決して、悪いことじゃない。出来事に気を奪われるのではなく、みずから出来事を選び取って、悩むべきを悩んでいる。
親鸞の思想の真髄を伝え記した『歎異抄』は、言わずと知れた「悪人正機」の説に代表される称名念仏の思想である。「善人なほもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」。善人ですら極楽浄土に往生できるのだから、ましてや悪人であらばなおさら往生できるというものだ、と説くこの思想は、すなわちみずからの善性におごる善人よりも、悪を犯したそのために自省する機縁をもった悪人の方が、むしろ極楽に近いと言っている。
言うまでもなく、こう語った親鸞には血のにじむような思想的苦渋があっただろうことは、想像に難くない。そこには倫理的、心情的な極度の緊張があったはずで、決してポピュリズムのためのそれであったわけではないだろう。詳しくないため何とも言いようがないけれども、素朴に疑問を感じていることがある。「善人なほもて・・・・・・」とこう語った時、果たして親鸞は、ともに極楽に上っていった善人と悪人、もっと言えば殺した人と殺された人、両者が同じ世界に生まれ直り対面した時、その心のうちはいかんと、想像することはなかっただろうか。 無残に殺められた人間が、死後も自身を殺めた人間と、ともに生きねなければならないこの矛盾を、酷薄さを、親鸞はどのように受け止めて、消化して、あのような思想に結実させたのだろう。安易な寛容さは許しがたい。果たして神や仏は相容れがたい善と悪とを無節操に同居させてしまうほどに、残酷なのか、と思わないではいられない。ぼくだったなら、ぼくを殺した人間と同じ蓮のうてなの上にはいられない。それとも、そんな小さな存在の悲しみは、想像を絶した大きな存在者の前にあっては、なきに等しいものなのだろうか。それが絶対者の意志だとするなら、「大審問官」じゃないけれど、慎んで極楽への入場許可証はお返ししなければならないところだ。 臓器移植をめぐって、反移植論者によって語られる言説も、受け容れがたいと感じられる。人間の尊厳を声高に唱える彼らは、無数のチューブによって辛うじて命をつながれている、あどけない一、二歳の子供を前に、もう一方の際にある、タイムリミットに追い詰められてその時を待つ彼らに何を感じるだろう、その時彼らは、脳死者の尊厳と生者の尊厳の、いったいどちらを選ぶのだろう。 子供のように単純な、これらの疑問に対する答えは、まだ知らない。ただ疑問だけをそのまま記しておこうと思う。
あらたまって口にするにはあんまり当たり前のことなので、いささか恥ずかしい思いでためらわれていた。が、ごくまっとうな常識が守られない世の中である、ふだんは片手でさばいていた惰性の行為も、時には両手で抱え上げ、ためつすがめつ点検してみるのも悪くはない。
夢想は人生における欠かせない楽しみのひとつだが、どうもぼくのなかでは、夢見たことは必ず破れる、そんな決まりごとがあるようだ。その夢は、取りとめもなく非現実から現実へと飛び移り、一方から他方へと渡り、まったく不定な、脈絡のない心の働きである。これはぼくの独善的な感覚に過ぎないけれど、妄想が他者との共通感覚の土台を欠いた、独りよがりな夢だとすれば、夢想はもう少し社会的なあてのなさと言えるだろう。これには、ルソーの著作『孤独な散歩者の夢想』の言葉が影響している。確かに、夢想は創造的な成果の種にもなりうる。 怖いのは、夢想が横着を決め込んでしまうことだ。あてのない心の移ろいにも、それなりの規則というものがあるようで、たとえばそれが他者の人格を踏みにじることに、サディスティックな喜びを感じるだとか、血を見ることに官能的なおののきを感じるだとか、そうした反社会性に落ちた時、夢想はもはや夢想ではない。それが本来のそれたりうるためには、夢見る者に根っからの善性とでも言うべきものがなくてはならない。人間の善行に喜ぶような善性があって、はじめてそれのあてどのなさは、気ままな夢の移ろいと呼べる。そうした夢は、心をすり減らすどころかむしろ富ませる豊かさを備えている。 横着、と書いたが、これは生活の乱れや、疲弊しきった心の乱れ、もしくは際限のない欲望の膨張といった無秩序が、夢想の自律作用をなくすることを言っている。一見気ままのようで、実は満ち足りた心によってはじめて夢想は、自律的に展開している。生活の昼夜逆転や閉塞的な未来と現在、現実がどうしようもなく抜き差しならない状況の時、妄想が際限もなく放縦に膨張してゆくことは、経験によって知っている。自棄になって、人として守るべき道徳や自尊心を投げる時、人の心にはどこまでも悪魔的な妄想が膨らんでゆく。そうなると、夢の世界は現実にまでも脅威を与える。妄想は、健全な心を壊してゆく。 引きこもりの時期のこうした不健全な妄想は克服したが、しかしまだ、時おりひやりとすることがある。夢見たことが破れてゆく、こう言う時、ぼくはすっかり横着して勝手に未来に期待をかけてる。夢を見たから、夢が破れてゆくのではない。夢見たことが破れた瞬間の落胆を先取りして、夢をはすかいに眺めていながら、ちっとも本気になってそれに取り組もうと頑張らない、だから見る夢だってかなわないのだ。失望や落胆、幻滅をいささかも恐れるようであってはいけない。 ただ、現在に目を・・・・・・とは思うものの、それでもやはり。それでもやっぱり、ひとつことに一心にはなれないこともある。あちらを選べば、こちらを失い、こちらを選べば、あちらを失う。あまつさえ欲するものを得られずに、いまあるものも失くしてしまえば・・・・・・と考えると、怖くて前に踏み出せなくなる。だから、いまは、とりあえず、力を尽くして待つほかない。簡単なことだ。けれど簡単なことでも、容易じゃない。あてがなければ、努力しない、約束がなければ頑張れないのだ。情けない。しかし。 遠い先は見ないよう、やれることをいま、やれば、いずれは運命の方から、自分を選び取ってくれる時がくるかもしれない。
昨日のように近く思えていたわずか四、五年前の自分自身も、案外に忘られていることが多いものだ。日が暮れてこうもりの飛び交う野鳥の森を母と一緒に歩きながら、ぼくが愛知の監禁致死事件を話題に上せた。
母は、「そんな方法で引きこもりが良くなるはずもないのにねえ」、と首をかしげた。両親の浅はかさも痛いけれど、でもふたりの切羽詰った思いもわかるよね、とぼくが言うと、うなずいた。 彼らは息子を、待ってやることは出来なかったのだかろうか。しかし、それでは家の場合はどうだろう、と、母に向かって、「家は待ってくれたよね、でも一番しんどかった時には、何もやってくれることは、なかったね」と言った。 母は、何日も閉じこもっている息子を心配し、時おりそおっと襖を開けて、生きているかなと確かめたものよ、と少し笑いながら打ち明けた。しかしとにかく、家の親は息子を待ってやることが出来た。だからいまがあるのだと、「幸いだったねえ」としんみり言うと、何をひとごとのように、と吹き出した。 けれどその間、親としてやってくれたことは何かあった? とたずねると、「何を言ってるの。毎日、夜遅く一時、二時までも話に耳を傾けてたじゃない」憤然と言われて、ああ、そうだったろうか、と空を仰いで記憶を探った。確かに、そんなことがあっただろうか。 中学生の頃から、夜遅くまで母を相手に話に熱中することが多かった。議論の相手としては物足りないこの母だから、一方的に話しつづけたことだった。だから、二時間も、三時間も話しこんでも、不満な思いしか募らなかった。話しを聞いてくれたことを、話し相手となってくれたととらないで、張り合いのない聞き手でしかなかったのだ、とか、打てば鳴るほどに熱心に話してはくれなかった、とか、その程度の消極的な、いやむしろ、どうしてこうも力ない無力な親を持ったのだろう、と不遜なことを考えていた。 しかし、息子を思って盛んに動いてくれたところで、それが果たしてぼくにとって最善な方法であったろうか。不器用だけれど、無力だけれど、どうしてよいかわらなぬなかで、それでも話に耳を寄せてくれた、そうしたつつましい想いと努力が、知らぬうちに、じわじわと、ぼくの心を動かしたのではないか。とは、いまになって思うことだ。それは、本当に、感謝すべきことだったのだなあ・・・・・・。
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